2006年06月06日

大玄和尚(だいげんおしょう)ときつね

 昔、高足村(高師)の高林庵(こうりんあん)に、いたずら好きの大玄という和尚がいた。ある日、和尚が南の浜の村に用事で出かけることになった。
 
 和尚は、草鞋(わらじ)を履き、大きな信玄袋を肩にかけ、朝早く寺を出ると、南の浜の村に向かって、てくてくと歩いて行った。やがて高師原から野依村を通り、南の浜へと続く赤土の道を進み、天伯(てんぱく)原の中ほどまで来たところで、小高い丘の上に立つと、
「今日は暑いわい。まだまだ先は長い、こちらで一服しよう」

 和尚は腰をおろすと、汗をぬぐいながら南の方を眺めた。
 
 天伯原は一面にススキや小笹が生い茂り、小松林が点在していた。ふと、足元の丘の下に目をやると、狐たちが我が物顔で野原を駆け回っていた。いたずら坊主が、これを見逃すはずがない(これはこれは、いたずら坊主におあつらえむきなやつらがいるわい)。和尚は、狐たちを驚かしてやろうと、信玄袋から法螺貝(ほらがい)を取り出すと、大空に向かって、「ブゥォー」と吹き鳴らした。狐たちは、大慌てに慌て、一目散に逃げだした。そんな狐たちの姿を見て、和尚は腹を抱えて大笑い。すっかり気をよくした和尚は、ふたたび南の浜の村に向かい、てくてく歩いて行った。
 
 用をすませた和尚は、朝来た道を折り返し、高足村に向かって帰りを急いだ。天伯原まで戻って来た時、急に日が落ち、あたりは真っ暗闇となり、先に進むことができなかった。途方にくれた和尚が、辺りを見まわすと、あっちの方にぽつんと一つ灯りが見えた。
「高林庵の坊主だが、すまんが今夜一晩泊めてくれ」

 すると、中から老女が出てきて、
「そりゃあいいが、夕方、家(うち)に死人(しびと)が出てのん、わしゃあ隣の家まで伝えに行ってくるんで、あんた留守番を頼まあ」
と言うと、さっさと出ていってしまった。和尚が、仕方なしに留守番をしていると、(ありゃりゃ)、死人がのこのこと布団からはい出し、和尚の方に近寄ってきた。和尚はびっくりして、一歩二歩と後ずさりした。すると、また寄ってくる。そんなことを繰り返しているうち、和尚は家の外に、谷川へと転がり落ちてしまった。

 和尚は腰を強く打ち、「痛てぇ」と大声をあげた。その時、あたりがぱっと明るくなり、そこは朝方、和尚が狐たちにいたずらをした場所だった。和尚は、自分が、狐たちに化かされ、見事に仕返しされたことに気がついた。
「こりゃあ見事に一本とられたわい。わしの負けじゃ。いたずらもほどほどにせぬと、思わずしっぺ返しを喰うわい」と、腰をさすりながら、高林庵に戻って行った。

豊橋・高師・芦原校区の民話
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2006年05月31日

民話「大西の馬頭観音」の背景を訪ねて

大西の馬頭観音のほこら
民話「大西の馬頭観音」の背景として登場する、
大西の公民館脇の小さな祠(ほこら)を、訪ねました。

馬頭観音さまをお参りすることができませんでしたが、
この建物だと思います。(たぶん?)


「馬頭観音(ばとうかんのん)」とは、
真言宗の六観音(聖観音、千手観音、馬頭観音、十一面観音、准胝(じゅんでい)観音、如意輪観音)
または、七観音(六観音に、天台宗の不空羂索観音(ふくうけんじゃくかんのん)を加えたもの)の1つ。

宝冠に馬頭をいただき、忿怒(ふんぬ)の相をした観音菩薩(ぼさつ)。
魔を馬のような勢いで打ち伏せ、慈悲の最も強いことを表すという。
江戸時代には馬の供養と結び付いて信仰されるようになった。

別名 「馬頭観音菩薩」「馬頭観世音菩薩」「馬頭明王」ともよばれます。

重要文化財に指定されている石川県の豊財院の馬頭観音立像が、代表的な作のようです。

地区の人々に大切に祀られている観音さまは、どんなお顔をしているのでしょうか?
posted by ハマちゃん at 17:57| Comment(4) | TrackBack(1) | 豊橋の民話-場所・背景 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月29日

大西の馬頭観音

 昔、大西の里に、たいへん働き者の馬方が住んでいた。
「今日もご苦労だったなあ。帰りの荷がなくてよかったよ」

 重い荷物を隣村まで届け、ほっとした馬方は、空になった馬の背中を優しくなでた。村から里まで急な坂道を通り抜け、昼でも暗い杉木立を通り過ぎると、後は一本道だ。
「おお、おてんとさまが隠れそうだぞ。急がんと日が暮れる」

 馬方は、赤く染まってきた西の空を眺めながら、馬の前をテクテクと歩き続けた。汗びっしょりの顔を拭いもせず、ただ早く帰りたい一心だった。時折り、冷たい風が背中のあたりをかけ抜けていく。
 
 (あれ?何かおかしいぞ。わしと馬しかおらんはずなのに、何かいるぞ)
前になったり後ろになったり、たしかに何かがいるのだ。(もしや、オオカミ・・)ぞくっとした馬方の手にぐっと力が入った。
「おおーい、そこの狼よ。姿を見せな。わしの家までついてこい。お前の大好きな塩をやるぞ」

 恐ろしさに震え、しぼりだすような馬方の声は、切れ切れになって、風に散っていった。
 
 でも、何かがひたひたとついてくるような気配は、やむことがなかった。馬方は、息を殺し、恐ろしさに震える足をただ前に前にと運び続けた。ようやく、家にたどり着いた時は、真夜中を過ぎていた。家の中に一歩入った馬方は、何より先に井戸の水を汲んだ。
「おお、よしよし、これで安心だ。いっぱい呑めよ」

 馬がかいばを食べ始めたのを確かめると、疲れ果てた馬方は、そのまま土間にごろんと転がり、眠ってしまった。
 
 朝になった。鶏の声といっしょに起きた馬方は、首をかしげた。自分が餌を作り出すと、必ず聞こえてくる朝の一声、「ヒヒーン」が聞こえない。急いで桶をさげ馬小屋に走った。
(これは、どうしたことだ?)

 馬は、影も形もない。慌ててそこらを探し回ったが、どこにもいない。声もかれはて、井戸端に倒れ込んだ馬方の目に飛び込んできたのは、馬の片足だった。やっと、狼に喰われてしまったことが分かった。
「何とかわいそうなことよ。わしが悪かった。わしが約束を破ったばっかりに、とりかえしのつかんことをしてしまった」

 馬方は、憐れな馬の霊を慰めようと、馬頭観音を作り、お祀りするようになった。今も、小さな観音さまは、大西の公民館脇の小さな祠(ほこら)の中から、働く人々を見守っている。

豊橋・牟呂・汐田校区の民話
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2006年05月26日

民話「お蚕さま」の背景を訪ねて

中郷素戔鳴(なかごうすさのお)神社
「お蚕(かいこ)さま」に登場する「中郷神社」は、
「中郷素戔鳴(なかごうすさのお)神社」といい、
4月 第4土曜には、三河の手筒花火が奉納されています。


「蚕」や、蚕のエサとなる「桑の木」さえも、
「蚕都豊橋(さんととよはし)」と呼ばれた地でも、
今では、あまり見かけなくなりました。

クワといえば、
豊橋の巨木・名木100選に選ばれている“クワの木”が、高師緑地にあります。
高師緑地のクワ

樹齢100年以上というこの木は、ちょうど青い実をつけていました。
クワの実
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2006年05月25日

お蚕(かいこ)さま

 蚕の卵が産み付けられた種紙は、今からおよそ千三百年前から、寒い冬の間、本宮山奥院(ほんぐうさんおくのいん)の木箱に預けられていた。春になると、宮司の祈祷を受けて養蚕(ようさん)農家に配られた。
 
 吉田で養蚕が始まったのは明治の初めだった。
 
 細谷(ほそや)で生まれた民造(たみぞう)は、蚕に不思議な力を感じ、農家が生き残るには製糸しかないと考えた。そこで、六名の女工を群馬県碓氷(うすい)に行かせ、製糸の技術を習わせた後、花田(今の羽根井校区)に製糸工場を造った。
 
 また、民造の弟は、
「質の良い繭(まゆ)を生産するには、桑が大事」
と桑の改良に努めた。桑畑は細谷、二川方面から近隣の農家に広がり、蚕を飼う農家が増えていった。

 茂一(もいち)も細谷で子どもの頃から桑をつんで育った。あるとき父親から
「お前も製糸で身を立ててみないか」
と進められ、中郷(なかごう)神社の近くで製糸をはじめた。茂一の一日は、体を清め、正装して神前に正座し、祈りを捧げることから始まった。

 茂一の楽しみは、繭問屋と連れだって養蚕農家を訪ねることだった。いつも足を運んだのは、谷川のせせらぎが聞こえるお美津(みつ)の家だった。清々しい緑の空気がごちそうだった。ここで育った繭は、昔から質のよい絹糸になるのでたいそう尊ばれ、お上への献上品として遣われた。茂一が
「タンポポのわた毛が飛び始めたので、ぼつぼつ卵を温めるころかと思ってな」
と話しかけると、お美津は目を細めて、
「だいじなお蚕さまだでね。わたしが種紙を半纏(はんてん)でおぶって卵を温めとるだよ。そろそろ卵が透きとおってきたで、そのうち、かわいい蚕が生(は)えるぞね」

 蚕が生え、はきたてが始まると、養蚕農家はにわかに忙しくなる。

 桑が足らなくなると、じいさまが桑問屋をかけまわって桑を集めるのだ。
「蚕にゃあ、『桑だぞよ、桑だぞよ』と話しかけ、待って貰うだが、つらいぞん』

 わが子のように育てた蚕が、藁で作ったまぶしの中をくぐりぬけて糸を吐きながら命がけで繭をつくる様は人の心を動かした。

 こうしてつくられた品質の良い繭は、皇室に献上され、後に「蚕都豊橋(さんととよはし)」と呼ばれるようになった。

豊橋・羽根井校区の民話
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2006年05月05日

山の背くらべ

 石巻山と本宮山は、いつも自分の方が背が高いと言い争いしていた。この日も朝早くから、
「やい石巻山、お前が何と言おうと俺の方が背が高いぞ」
と、本宮山が大声で叫んだ。

 すると石巻山も大声を張り上げ、
「何をこくだ本宮山。俺の方が背が高いにきまっとらー。お前なんかに負けるもんか」と激しく言い返した、両方の山の神様が石をぶつけ合うほどの大喧嘩となった。

 そこで、まわりの山々の神さまたちが集まり、
「このような争いをいつまでも続けさせておくのはよくないぞ。どっちが背が高いか、背くらべをしてやらまいか」
と相談した。神様たちは、石巻山と本宮山の頂上に樋い(とい)をかけ、水を流した。すると、水は石巻山側に激しく流れ落ち、石巻山が負けてしまった。

 この時の、水の流れによって石巻山の頂上の土がドッと流れ落ち、大きな岩がむき出しになってしまった。
 
 そんなことがあってから、石巻村の人々は、石巻山が少しでも高い山になるようにと、
「石巻山に登る時、小石を持っていくと楽に登れるぞん。また、山の頂上に小石を置いて、願いごとをすると、ちゃんと願いを聞いてくれるだに」
という噂話をつくって、言い広めたので、それからは、石巻山に登る人たちは小石を持っては山に登り、頂上に置いて山の神さまに願いごとをした。
「今日は、小石をもっていったお陰で、神さまが助けてくれたのか、こんきく(疲れ)なかったやあ」
と言う人たちが増え、石巻山は小石を持っていけば、だれでも登れる山で、ご利益のある山と言い伝わり、小石を持って登る人々で賑わうようになった。

 また、石巻山の北一キロメートルほどの所に、本宮山との喧嘩で石を投げ合ったとき、飛んできたつぶて石だと言われる岩がある。
 
 このごろは、山上(やまのかみ)石巻神社にお参りする時、麓(ふもと)から小石を持って登り、灯篭にあげたり、鳥居に投げ上げてお参りするとご利益があると言われている。特に子どもがお参りすると、頭がよくなるというので、遠くから子供連れでお参りに来る人もいる。

[注]石巻山(豊橋市石巻町)356メートル
  本宮山(現在の豊川市一宮町)789メートル

豊橋・石巻校区の民話
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2006年04月10日

民話「片身のスズキ」の背景を訪ねて

吉田城鉄櫓-全景

民話「片身のスズキ」の背景として登場する、豊橋市今橋町にある吉田城。
そして、城の裏を流れる豊川(とよがわ)を、訪ねました。

吉田城鉄櫓、一般公開!

現在、吉田城では、鉄櫓(くろがねやぐら)を一般公開中!


鉄櫓は1954(昭和29)年、
豊橋産業文化大博覧会の目玉として復元されたもので、鉄筋コンクリート造りの三層建て。

吉田城築城500年を機に、
昭和46年に閉鎖して以来、34年ぶりに一般開放されていたのが、
好評につき、継続して公開されることになりました。

櫓とは、もともと城の四方に配置し、
武器を保管し、見張りをした建物で、
櫓の中には、吉田城本丸の再現模型や、
吉田城を紹介するパネルなどが展示されています。


ちなみに開放期間は、
4・5月の日曜日と、
4月1日(土)・8日(土)・29(祝)、
5月3日(祝)〜6日(土)です。

時間は、10:00〜15:00です。
posted by ハマちゃん at 07:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 豊橋の民話-場所・背景 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月08日

おしいばち

 昔々、神代の時代のこと。

 天照大神(あまてらすおおみかみ)の言いつけで、六人の神々が、海手の賊を退治するために、航海に出た。向かうもの敵なしの勢いで、悪者たちに立ち向かっていた神々に、突然の不幸が襲ってきた。航海中、暴風雨に見舞われてしまったのだ。飢えと寒さに震えながら、漂流すること十数日、やっとたどり着いたのが植田の海辺だった。

 命からがら岸にはいあがった神々は、助けを求めて歩き続けた。ようやく見つけた里人の家の前まで来ると、手を合わせて頼んだ。
「食べ物をわけていただきたい」
 
 しぼりだすような必死の声に、里人はそっと戸のすきまからのぞいてみた。
「何ということだ!賊かもしれないぞ」

 着ているものは破れ、髪の毛もひげもぼうぼうだ。落ちこんだ目だけが、ギラギラ光っている。あやしげな姿に恐れをなした里人は、そっと裏口から抜け出すと里の人々に急をつげてまわった。
「食べ物を恵んではならんぞ。早く村から追い出してしまえ」

 その夜、里人の家は、どこも固く戸を閉じて開かなかった。
 
 六人の神々は、世の無常を嘆き、動く気力もなく地に伏して泣いた。

 翌朝、東の空があけ始めるころ、里人たちは、森外れの木陰で固く抱き合っている六つの亡きがらを見つけた。びっくりした村人たちが、冷たくなった亡きがらを調べてみると、高貴な神々であることがわかった。
「なんと、むごいことよ。知らぬとはいえ、悪いことをしてしまった」

 里人たちは、自分たちの罪の深さを悟り、心をこめて六人の死を弔い塚を立てた。これが、車神社の境内にある「ひさご塚」だといわれている。

 毎年、十月二九日の祭礼には、「おしいばち」という神事が大切に受け継がれている。

 当番に当たる人たちは、夜明けごろから大釜でご飯をたき、客側を待ち受ける。客たちは、裃に身を固め、特大の親碗に盛り上げたご飯をいや応なしに食べなければならない。一粒でもこぼしたり、食べ残したりは許されない。凶年になっては大変だからだ。早くきれいに食べれば食べるほど豊年だといわれている。
「決して食べ物を惜しんだのではありません」

 六人の神々を餓死させたことへのお詫びの意味が込められると共に、この神事が長い間受け継がれてきたのは、白米に対する願望と、感謝の意味が込められている。

豊橋・植田校区の民話
posted by ハマちゃん at 17:59| Comment(10) | TrackBack(0) | 豊橋の民話集 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月05日

片身のスズキ

 昔々、吉田の里に五郎という漁師が住んでいた。

 五郎は、いつものように豊川に漁に出かけた。ところが、どういうものか小魚一匹釣れなかった。次の日も、また次の日も漁はなく、骨折り損のくたびれもうけだった。それでも五郎は毎日かかさず豊川に漁に出かけて行った。

 豊川のほとりで生まれ、育ち、豊川を漁場として生業(なりわい)をたてている五郎には、十日、半月、魚が釣れずとも漁場を代えようとは思わないが、雑魚一匹釣れないのは何か理由があるだろうと気になっていた。
「今日で何日目だろう。こんなに魚に嫌われちゃあ、俺んとう漁師はおまんまの食い上げじゃ」
と、五郎がつぶやいた九日目の朝のこと、五郎の竿がいきなり大きくしなった。そりゃあ、びっくりするほどの手応えだった。
「きた、きた、きた。お前だなあ、お前のために、ここの魚んとうが何処かに散らかってしまったぞ。お前を逃がす訳にゃあいかねえや、俺んとう漁師の生活が掛かっとるでな」

 しばらくの間、五郎と魚の激しい戦いが続いたが、やがてとてつもなくでっかいスズキを釣り上げた。五郎は釣り上げたスズキを魚篭(びく)に入れると、大急ぎで家に持ち帰り女房に見せた。
「あんた、吉田のお殿様は、スズキの刺身が大好きだちゅうで、お城にさし出し、お殿様に喜んでもらっちゃあどうだん」
「ああ、俺も、そう思っとるぞ。何たって豊川で釣り上げた自慢のスズキだ。お城に届ける前に、お前にみせたくてな」
と言うと、五郎は自慢のスズキを早々にお城に届けた。

 お城では、料理番の男たちが、貰ったばかりのでっかいスズキを刺身にしようと、庖丁を研ぎ、スズキをまな板の上にのせた。そして、サーっと片身をそいだ途端、スズキは元気よくピョーンと跳ねると、片身のままお城の裏を流れる豊川に跳び込んでしまった。

 さぁ大変。料理番たちは大慌てでタモを取り出し、片身のスズキをすくおうとしたが、川に跳び込んだスズキは、片身のままで、川底へ泳いでいってしまった。

 片身のスズキは、そのまま長く城下に住みつき、この豊川の主となったと言われている。

豊橋・八町校区の民話
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2006年03月29日

千体骨地蔵(せんたいこつじぞう)

 今から、およそ八百二十年前のこと、平家の武将原田太夫種直(はらだだゆうたねなお)は芦屋浦(あしやうら・福岡県)の合戦で、源氏に敗れて捕らえられ、鎌倉の土牢に入れられた。

 種直は戦に出るとき、妻の栄耀(えいよう)に、
「お腹の子は花若丸と名付けよ」と告げていった。

 花若丸は成長するに従って、父を想う気持ちが強まっていった。十三歳になった時、家臣の子、十七歳の藤王丸と共に母に連れられ芦屋浦に行った。

 美しい芦屋浦の波打ち際で戯れていたが、波のいたずらか砂が形を作り、それが人の顔のようにも、人形のようにも見えるのに驚いた。
 
 ここは、かつて父や兄が戦った芦屋の合戦場の砂浜であり、砂の中には、この地で、討ち死にしたと思われる源平の武将たちの遺骨だろうか、たくさんの骨があった。砂の中から拾い上げた骨をこわさないように積み上げていると、母が言っていた
「お地蔵さまは、一心に祈れば願いごとをかなえて下さるのですよ」
という言葉を思い出した。
「そうだ、この骨を集め、すりつぶして練り上げ、千体のお地蔵を作ろう」
と決心した花若丸は、戦場に消えた源平両方の武将たちの霊を慰め、お経を唱えながら、大きさ十センチほどのお地蔵さまを一体、一体、心をこめて作り上げた。

 完成した千体のお地蔵さまを丁寧に厨子に納めると、藤王丸が背負い、母に見送られて鎌倉へ向かって旅立った。
 
 お地蔵さまを作り始めた時から花若丸は、父の捕らわれている鎌倉へ行き、自分が代わりに牢に入り、父を許してもらうよう願い出たいと思っていた。厨子を背負い、念仏を唱えながら、鎌倉の町を歩く二人の若者の姿は、人々の噂となり、やがて源氏の大将、源頼朝(みなもとのよりとも)の耳にも入った。

 頼朝の命により、花若丸は目通りが許され、御前に厨子を差し出した。藤王丸の手で厨子の扉が開かれると、その瞬間、千体地蔵尊から後光がさした。どの地蔵尊の顔も、戦で失われた人を痛む悲しみと、深い慈愛の表情があった。

 花若丸は、千体地蔵尊に込めた思いを頼朝に話した。頼朝は、花若丸の親を思う気持ちに心を打たれ、種直を許した。そして種直たちは、三州足助(さんしゅうあすけ)に移り住んだ。

 種直と一行が足助に向かう途中、立ち寄った花ケ崎(現在の南松山町)は、芦屋浦を偲ばせる景色の美しさであった。後に母、栄耀は、この地に正林寺(しょうりんじ)を建立し、千体骨地蔵尊を安置した。

 現在、正林寺の地蔵堂には、厨子に納められた千体地蔵尊が祀られている。

豊橋・松山校区の民話
posted by ハマちゃん at 09:52| Comment(2) | TrackBack(0) | 豊橋の民話集 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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