2007年03月08日

海に消えた皇子

 千二百年も前のこと。弥生三月、西風が激しく吹き荒れたため、沖で漁をしていた漁船が牟呂の陸地へ吹き寄せられていた。漁船に混じって一隻の不思議な形をした船があった。その船には、舳先(へさき)もなければ、艫(とも)もない。

 村人たちは、「船中から何か物音が聞こえる。人の話声が聞こえる」
と不審がった。その時、年老いた漁師が、
「これは話に聞くうつろ船だろう」
と言った。村人たちが、板を外してみると殿上人(てんじょうびと)と思われる若い男女二人と、年のいった女が一人、屈強な武士が二人の五人が乗っていた。

 一行は長らく海上を漂流していたとみえて、色は青く、やせ衰え、ものも言わず、ただ手を合わせ、涙を流し、
「我らは故ある者だが助けてくれよ」
と、願うばかりだった。

 牟呂の郷人(さとびと)たちは、どこの誰だか解らないが、とにかく、家につれて帰り、手厚く介抱した。一行はやがて元気を取り戻すと、ここに流れ着いた訳を話した。

 一行は、天武天皇(てんむてんのう)の皇子で開元親王(かいげんしんのう)と、官女と乳母(うば)、二人の家来だった。天皇は兄たちよりも文武ともに優れる第三皇子の開元王を、日頃より好ましく思わなかった。ある日、天皇の怒りに触れて皇子は流罪(るざい)となった。その時、四人の者も一緒にうつろ船に閉じ込められ、流されてしまった。

 話を聞いた村の者は、そのような立派な方を草家などではもったいないと、村長(むらおさ)に申し出て、大海津の南にあるひがき屋敷に新御殿を建て、皇子の住まいとした。村人たちは皇子を「開元王」と呼び、敬い慕った。

 皇子も大変に喜ばれ、御殿の裏に観音さまを祀り、深く信仰された。この観音さまは、御殿の真後ろにあるということで、真裏口(ませぐち)の観音と呼ばれ、多くの人の信仰を集めた。そこは村人ばかりか、遠くから大勢の人が訪れ、市(イチ)が立つほどとなり、そこを市道と呼ぶようになった。

 やがて皇子もお后を迎え、日常の生活にもゆとりができたので、宮路山に登ったり、舟遊びを楽しむようになった。そのような度々の外出や、近国(きんこく)の神主に官職を許可したり、多くの人が観音さまにお参りするようになったことが、国府(こくふ)の役人の知ることとなった。役人は、天皇の皇子であることに驚き、都にその報告をした。

 天皇は、開元王の振舞いを知り、怒って討手(うって)を差し向けた。それを知った皇子は見苦しい死に方はしたくないと、自分の死を覚悟し、村長にこれまでの礼を言うと、自ら海に入り、やがて波の間に隠れてしまわれたと伝えられている。


牟呂・汐田校区の民話
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2006年12月13日

大根流し

 江戸時代の頃、吉田の宿に真田ひもを編んで暮らしをたてている幸助(こうすけ)という男がいた。幸助が生業(せいぎょう)としている真田ひもは、信州上田の郷で真田幸村(さなだゆきむら)公が領民に奨めて編ませたのが始まりだといわれている。
 
 幸助は真面目な男で、神仏を深く敬い、毎日を感謝しながら仕事に励んでいた。ただ、幸助は生まれつき喘息(ぜんそく)という病気を持っていたので、いつも咳をしていた。ことに秋から冬にかけては、はた目にも苦しそうだった。
「幸助さん、今日のあんばいはどうだん。すこしはましかん」
と仕事へ行く人々が声をかけてくれたが、ひどいときは、返事もできず、背中を丸めて激しく咳きこんでいることもあった。

 ある年の暮の十二日のことだった。その日、幸助はなんだかとても心地よく、冬には珍しい暖かな陽差しにつつまれて部屋に座っていた。なんだか、今日は不思議な日だなぁと思っていると、正面の襖(ふすま)が開いて、一人の立派な武将が部屋に入ってきた。幸助は何事だろうと、ただただ驚いて見ていると、それは日ごろから敬っている幸村公ではないか。突然の出来事にびっくりして額を床にすりつけ、ひれ伏していると、幸村公は、
「幸助、お前が喘息の持病で苦しんでいるのを本当に気の毒に思っている。お前はいつも正直に、真面目に仕事に励み、神仏への信心も厚く感心しておる。それに報いて、わたしが難病を取り除いてやろう。病を除くには、天の水と地の水が合流し、東南より東北に流れて、途中二つ以上の橋をくぐって海に流れこむ川を探しあて、その川に自分の名前と真田幸村様行きと書いた大根を流すことじゃ。そうすれば喘息はたちまちなおるであろう」
と言われると襖の奥へ消えていった。

 幸助は、不思議なできごとに、恐る恐る顔をあげてあたりを見回すと、いつもの住み慣れた自分の家にいるではないか。よくよく考えてみると、発作の苦しさから逃れようと一心に祈っていて気を失い、倒れていたようだ。幸助は、お告げの場所を探しだそうとあちこち歩き回り、杉山村でお告げの川を探し当てた。そこで教えられたとおりに大根を流したところ、あれほど長い間苦しんでいた喘息の発作が二、三日すると嘘のようになくなった。

 この噂を聞き、喘息に苦しむ人たちが大根をもって、この地にお参りにくるようになった。また、村の人たちも信州上田村の真田神社から神霊をお迎えし、真田神社を建立し、毎年十二月十二日に加持祈祷(かじきとう)のお祭が行われるようになった。

[注]真田神社(豊橋市杉山町字下泉)

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2006年11月15日

魚籃(ぎょらん)観音

 白須賀(しらすか)の郷(さと)から伊良湖の郷までの途中に、赤沢という小さな漁村がある。

 今からおよそ六百五十年ほど前、赤沢村に、不思議なできごとが持ちあがった。一寸先もわからんほど暗い夜になると、海の中に奇妙な光が浮いたり沈んだりするようになった。

 村人は気味悪がり、あたりが暗くなりはじめると急いで家へもどり、誰も外へ出ないようになった。
「あれは、何ずら? 恐ろしいことが起きにゃあいいが」
「漁ができんようになると困るなあ。どうしたらいいのか」
と困りはてていた。

 やがて、漁へ出る人も少なくなり、地引き網でにぎわっていた村は、いつしかさびれ、人々の暮らしは苦しくなるばかりだった。村は、ひと気もなく静まりかえってしまった。また旅人まで、この話を聞き、街道を通らなくなってしまった。

 この村に、久作(きゅうさく)という漁師が住んでいた。久作は、信心深く、毎日、欠かさず経を唱え、村人の仕事も快く手伝うので、「仏の久作」と、村中の評判だった。

 ある夜のこと、久作は、「この村を元のようにしたいなあ」とつぶやいた。
「このままじゃあ、村が死んでしまう。思いきって海に出て、あの光るものをつかまえよう」とふるい立った。久作は、ひそかに船を浮かべ、沖へ沖へと漕ぎ出した。

 やがて強い光を放っている場所に辿り(たどり)つくや、網を投げいれた。すると、ずっしりとした確かな手ごたえがあった。久作は、ゆっくり、ゆっくり網を手繰りよせ、光るものを船に引き上げた。
「おおっ。これは観音さまじゃあないか」

 急いで家に戻ると、観音さまの身体をていねいに洗ってさしあげた。観音さまは、魚のはいったビクを左手に持ち、慈悲深いお顔をなさった魚籃観世音菩薩さまだった。久作は、思わず、
「観音さま、不漁つづきで、村の者たちみんなが困っとるだ。どうか、お力をお貸しください」
と、何度も拝んだ。久作は、観音さまを仏壇にお祀りし、次の日から朝夕一心にお参りした。

 すると、赤沢の海から奇妙な光は消え、村は元の暮らしを取り戻し、漁師たちは安心して漁に出るようになった。この話をきいた近隣の村々からも、「わたしらにも、観音様を拝ませとくれんさい」と久作の家を訪れるようになった。久作は、お参りの人がふえて部屋がせまくなったので、「普陀山慈照庵(ふださんじしょうあん)」を建て、観音さまをお移しした。

 その後、明治十二年に眞龍院(しんりゅういん)に移された。毎年十一月三日、「魚籃観音祭り」の日に、各地から大勢の人々が集まり、観音さまの供養をつづけている。

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2006年10月11日

庄屋源吉(しょうやげんきち)

 源吉は、今からおよそ二百五十年前、高足村(高師)の庄屋の家に生まれた。十八歳の時、村人たちに推されて庄屋となった。その頃、たび重なる飢きんや洪水などの水害にあい、穀物などの蓄えも底をついた。そのうえ、木の枝一本たりとも自由にならず、お上からの年貢のとりたては厳しくなるばかりだった。
 
 ある時、たまりかねた村人は、年貢をまけてもらうしか生きていく道はないと思いつめ、源吉のもとへやってきた。
「お役人さまに年貢を免じてくれるように頼んでくだせえ」「でないと、おらたちゃあ、むしろ旗を・・」と言いかけた時、源吉は、村人の言葉をさえぎり、
「それ以上いうな。みなさんの苦しみは私の苦しみだ。任せてくださらんか」と低い声できっぱりと言った。

 源吉は、近隣の村々の庄屋に相談を持ち掛け、みんなで藩主・松平氏に年貢を免じてくれるように申し出た。役人は、これを許さず、
「けしからん。藩主が免ずると申さぬに。さらなる訴えは、お上の命令に背くもの。獄に入れるぞ」とおどしたので、他の藩主は願いを取り下げてしまった。

 源吉は屈することなく、
「死を恐れて、どうしてこのお願いができましょうや。願いが取り上げられないのなら、臨在寺山(りんざいじさん)(吉田藩の死刑執行場)へお連れ下さい」
と言いきった。そればかりか何度も足を運んで訴えつづけたので、藩主は、検見(けみ)をするように役人に命じ、「年貢百三十八石を減じる」という知らせを届けた。

 村人の喜びもつかの間、源吉は命令に叛いた(そむいた)罪で死刑を宣告され、牢獄に入れられた。源吉の後を追っかけた村人は、
「庄屋さまを死なせてなるもんか。待っていてくだせえ」
と叫んだ。知らせを聞いて駆けつけた村人たちは、
「今こそ、おらんとうが立ち上がる時だ。みなの衆、心を合わせましょうぞ」
と固く誓いあった。その足で悟真寺(ごしんじ)・龍拈寺(りゅうねんじ)・東別院三坊(ひがしべついんさんぼう)の和尚さまと連れ立って役場に行き、源吉の刑を減らすよう懇願した。村人たちの強い気持ちが通じたのか、源吉は五年後に許され、村へ戻って来た。だが、長い獄中暮らしのため病の床に伏してしまった。
「もう三年も寿命があったら畑租(はたそ)を減らしてもらって、村の衆をもっと幸せにできたであろうに。それができないのが心残りだ」
といい終えると源吉は目を閉じた。この時、源吉はまだ二十五歳だった。


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2006年08月27日

二ノ午大祭(にのうまたいさい)の絵馬

 江戸時代のこと、三河国(みかわのくに)、小松原村に、働き者の惣吉という男がいた。惣吉は、毎日、畑に出て一生懸命に野良仕事に精出しても、女房や十人の子どもたちに満足に飯を食わせてやることもできなかった。村人たちは、惣吉のことを

 村の惣吉ゃ働き者よ 畑は耕せど 実はならず
 なぜか子宝に恵まれて ひーふ−みーよー
 いーむーなー やっつ ここのつ とどめの留よ
 それでもとまらず 十番目は末吉さ

などと囃し歌(はやしうた)をつくり、歌われるほど子宝に恵まれた。

 惣吉は、畑を耕し、種まき、草取り、肥えやりと、毎日せっせと働いた。また、新しい畑を作ろうと荒れ地を耕した。けれども、痩せた畑では野菜は育たず、開墾もはかどらず、このままでは家族を養っていけないと、大切にしてきた家宝の「壷」を手放し、農耕馬と交換した。

 馬を手に入れた惣吉は、(これで農作業もはかどるぞ)と喜んだのもつかの間、頭を抱え込んでしまった。馬はとんでもない暴れ馬で、馬屋につないでおけば手綱を引きちぎり、馬屋を飛び出し、惣吉の畑どころか、地主の畑や隣近所の畑まで荒らしてまわっていた。そんな日が幾日も続き、困り果てた惣吉が途方に暮れていると、埃(ほこり)まみれの衣を身にまとった旅の僧が現れ、惣吉に声をかけた。
「これ百姓、お前の悩みを解き明かすには、東観音寺の馬頭観音にお願いするがよいぞ。」
と静かに言うと、経を唱えながら東の方へ去っていった。

 惣吉は藁にもすがる思いで東観音寺を訪ねた。東観音寺には、馬頭観音があった。

 惣吉は和尚に、ことの一部始終を話した。すると和尚はニコニコ笑いながら、
「そりゃあお困りじゃのう。馬頭観音さんに絵馬札を奉納し、お参りなさい」
と言われた。惣吉は絵師にお願いし、立派な絵馬を描いてもらい、大きな絵馬札を奉納した。そして、毎日、馬頭観音を参拝したが、暴れ馬は一向に静まらなかった。

 惣吉は、再び和尚に相談した。すると、和尚は惣吉が奉納した絵馬札を見ながら、
「馬が暴れるのをやめない理由は、この絵にあるのじゃないかな」
と言う。惣吉は、奉納した絵馬をじっと眺めていたが、やがて絵馬札を取り外すと絵師の所に走り、立派な絵馬に負けないくらい立派な手綱を描き加えてもらった。それを奉納すると、暴れ馬が静まるようにと和尚に祈祷をしてもらった。

 それから、暴れ馬が嘘のように静かになり、よく働いた。働き者の惣吉と、馬が一緒になって農作業に励み、子だくさんの惣吉一家の暮らしも、日に日によくなり、家族みんなが馬を大切にした。

 惣吉が奉納した絵馬札が、「二ノ午大祭」の絵馬札となっているか定かでない。

豊橋・小沢校区の民話
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2006年08月18日

石造り観音

 昔、橋良(はしら)の村に働き者の五助(ごすけ)という百姓がいた。とても器用な人で、田畑の仕事の暇を見つけては、藁草履(わらぞうり)を編んだり、竹でざるを作ったり、板や角材で梯子(はしご)や箱、机などを上手に作り、それらを安い値で村人たちに売っていた。村人たちは、五助の作った物は丈夫で長持ちすると喜んでいた。

 朝早くから夜遅くまで働きづめで、とうとう五助は足が痛むようになってしまった。膏薬(こうやく)を貼ったり、あんまさんに掛かったり、いろいろやってみたが、何の効果もなく一向によくならなかった。
「おれは、働くだけがとりえで、信心がたりなんだ。今日からは朝晩お参りをしてなんとか足の痛みを治してもらおう」
と毎日熱心に神棚や、仏壇にお参りをしていた。

 そんなある夜、夢の中で不思議な声が聞こえてきた。
「お前の足を治すには、草に埋もれている観音さまを掘り出し、供養することじゃ」
とお告げがあった。

 驚いた五助は、翌日から痛む足を引きずりながら、何日も村のあちこちを捜し廻ったが、なかなか見つからず、困りはてて座り込んでしまった。その時、ふと昔あったお寺の場所を思い出した。

 ようやく、お寺の跡地の草むらから、観音さまを見つけ掘り出した。
「ああ、もったいないことじゃ、なむあみだぶつ、なむあみだぶつ・・・」

 五助は、泥だらけの観音さまを、きれいな水で頭、顔、体と丁寧に洗ってあげた。そして、その地に小さな祠(ほこら)を作り、毎日観音さまにお花やお線香を供え、お参りし、以前にもまして信心するようになった。すると、いつの間にか、お告げどおり痛んでいた足がすっかりよくなっていた。

 観音さまの噂は、たちまち村中に広がり、大勢の人がお参りするようになった。村では立派な観音堂を建て、観音さまを大切にお祀りした。

 その後、この地に公園が作られ、観音堂は壊されてしまった。観音さまは、村人たちの手で正光寺(しょうこうじ)に移され、門前の三十三観音に守られるように真ん中に安置された。村人たちは、手厚く世話をし、観音さまを心のよりどころにした。

 今も一年に二回、正月の二日とお盆明けの八月十七日、村のお年寄りが集まってご詠歌(ごえいか)を唱えお参りしている。

豊橋・福岡校区の民話
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2006年06月26日

でえたらぼうの股ずれ峠

 昔むかし、神代の時代のことだった。多米村の人たちから「でえだらぼう」とよばれる、雲を突くような大男がおった。

 そいつは、野に出てきては作物を荒らしたり、みんながいやがるような悪さばかりするので、村中の嫌われ者だった。
「でえたらぼうのやつめ、あの大きな図体と、怪力を、もっと世の中のため、人のために役立つことをしてくれたらみんな喜ぶのになあ」
「そうだなあ、悪さばかりしてないで、わしら百姓が喜ぶようなことをしてくれたら嬉しいのになあ」

 村人たちの願いも知らず、でえたらぼうはいたずら、悪さをくりかえしていた。

 あるとき、でえたらぼうは、何を思ったか、
「そうだ、駿河国(するがのくに)にある富士の山を日本一の高い山にしてやるか」
と、近江国(おうみのくに)は滋賀の琵琶湖の土をかきあげると、大きなモッコに入れ、「ウントコドッコイショ」と、天秤棒で担い、滋賀から駿河へと土を運んだ。その途中、三河国(みかわのくに)多米村の東はずれの峠をひとまたぎして、遠州湖西の知波田村へ向かおうとしたとき、ザザッと大きな音をたてて峠の山づらに、自分の股をすりつけてしまった。すると、峠の山が、ドドドドドッと、ものすごい音をたてて崩れ落ち、山のてっぺんが大きく窪んでしまった。

 その時、田植えをしていた多米村の人たちは、そりゃあ地震でも起きたかとびっくりして山の方を見あげたら、でえだらぼうが、大きなモッコをかつぎ、峠の山をひとまたぎに知波田村の方へと消えていくのが見えた。
「ありゃ何じゃ、でえだらぼうのやつ、何する気じゃ」
「でっかいモッコをかついで、どこに行く気じゃ。悪いことをせんでおくれ」

 村人たちが心配していた頃、でえだらぼうはニコニコ顔で、琵琶湖の土を富士山に積み上げていた。
「これでよし。わしが駿河国に、日本一の富士の山を作ってやったぞ」
と、大声で叫んだ。

 でえだらぼうが、峠越えをしたあたりの山頂は、でえだらぼうの股ずれによって大きく窪んでしまったが、三河から遠州へ、遠州から三河へと国ざかいを往来する人たちは、往来が楽になったと大喜び。村人たちは、いつしか、この峠を「股ずれ峠」と呼ぶようになった。

 でえだらぼう、だいだらぼう、だいだらぼっちなどと呼ばれる巨人伝説は日本全国あちこちにあるが、ここ豊橋にもたくさんの「だいだらぼっち伝説」が語りつがれ残されている。

豊橋・多米校区の民話
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2006年06月19日

しあわせ地蔵

 ある日のこと、おばあさんが重い鍬(くわ)で荒地を耕していた。
「ああー、こんきいなあ。掘っても、掘っても石ころばっかだ。開拓なんて、ちっともいいこたあない。この松もしぶといなあ」

 おばあさんは、しっかり根を張った小松を憎らしそうに見ながら、痛む腰をさすった。その時だった。松と松の間に何か光るものが見えた。
「何だやあ? 石みたいだが、こりゃ、大きいぞ!」

 鍬をほっぽり出したおばあさんはびっくりした。
「これは、地蔵さまではないか!」

 頭のあたりは、傷だらけで、顔もちょっと欠けているようだが、石ころではない。木の間からさしこんできた太陽の光を浴びて、ほんのりと温もっていた。
「おじいさん、地蔵さまだあ。うちの畠に地蔵さまが・・・」
「おいおい、だめだぞ。その地蔵にさわっちゃあいかん。たたりがあるで・・・」

 おじいさんは、目の色を変えて言った。
「たたり? 何かあっただかん?」
「ここに開拓が始まったころだがな、苦労続きでたいへんだった。その地蔵はどこから来たのか、大きな松の木の下にいたんだが、その枝を切っただけで、足が動かんくなったり、さわっただけで病気になったり、嫌われもんだっただ」

 おばあさんは、あちこち捨てられて来たと言うお地蔵さまをあわれに思った。
「おじいさん、みんなに相談しとくれん。わしゃあ、きちんと祀ってあげたいやあ」

 おじいさんは、周りの人たちに呼びかけ、何度も寄り合いを重ねた。
「お地蔵さまを粗末にすると、不幸がくるかもしれん」
「二百五十年も前のものだってよ。わしらのこと、何でもご存知だに」
「長い間、苦労してきたで、きっと強いお地蔵さまに違いないだよ」
「どうだん、みんながよく見えるところに移してお祀りせまいか」

 みんなの心が寄せ集まったお地蔵さまは、見晴らしのよい高台に置かれた。赤い帽子と赤い前だれのお地蔵さまも、秋の日を浴びてうれしそうに見えた。

 今日は、お地蔵さまに新しい性(しょう)を入れる日だ。
「夢にお地蔵さまが現れて『ありがとう』って言われたよ。お地蔵さまは、生きておられると思ったよ」
「よかったのん。これで、みんなに幸せがくるぞん。これからは、しあわせ地蔵と呼ぶまいか」

 願いがかなったおばあさんも、腰をのばし、ニコニコ笑っていた。

豊橋・大清水・富士見校区の民話
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2006年06月06日

大玄和尚(だいげんおしょう)ときつね

 昔、高足村(高師)の高林庵(こうりんあん)に、いたずら好きの大玄という和尚がいた。ある日、和尚が南の浜の村に用事で出かけることになった。
 
 和尚は、草鞋(わらじ)を履き、大きな信玄袋を肩にかけ、朝早く寺を出ると、南の浜の村に向かって、てくてくと歩いて行った。やがて高師原から野依村を通り、南の浜へと続く赤土の道を進み、天伯(てんぱく)原の中ほどまで来たところで、小高い丘の上に立つと、
「今日は暑いわい。まだまだ先は長い、こちらで一服しよう」

 和尚は腰をおろすと、汗をぬぐいながら南の方を眺めた。
 
 天伯原は一面にススキや小笹が生い茂り、小松林が点在していた。ふと、足元の丘の下に目をやると、狐たちが我が物顔で野原を駆け回っていた。いたずら坊主が、これを見逃すはずがない(これはこれは、いたずら坊主におあつらえむきなやつらがいるわい)。和尚は、狐たちを驚かしてやろうと、信玄袋から法螺貝(ほらがい)を取り出すと、大空に向かって、「ブゥォー」と吹き鳴らした。狐たちは、大慌てに慌て、一目散に逃げだした。そんな狐たちの姿を見て、和尚は腹を抱えて大笑い。すっかり気をよくした和尚は、ふたたび南の浜の村に向かい、てくてく歩いて行った。
 
 用をすませた和尚は、朝来た道を折り返し、高足村に向かって帰りを急いだ。天伯原まで戻って来た時、急に日が落ち、あたりは真っ暗闇となり、先に進むことができなかった。途方にくれた和尚が、辺りを見まわすと、あっちの方にぽつんと一つ灯りが見えた。
「高林庵の坊主だが、すまんが今夜一晩泊めてくれ」

 すると、中から老女が出てきて、
「そりゃあいいが、夕方、家(うち)に死人(しびと)が出てのん、わしゃあ隣の家まで伝えに行ってくるんで、あんた留守番を頼まあ」
と言うと、さっさと出ていってしまった。和尚が、仕方なしに留守番をしていると、(ありゃりゃ)、死人がのこのこと布団からはい出し、和尚の方に近寄ってきた。和尚はびっくりして、一歩二歩と後ずさりした。すると、また寄ってくる。そんなことを繰り返しているうち、和尚は家の外に、谷川へと転がり落ちてしまった。

 和尚は腰を強く打ち、「痛てぇ」と大声をあげた。その時、あたりがぱっと明るくなり、そこは朝方、和尚が狐たちにいたずらをした場所だった。和尚は、自分が、狐たちに化かされ、見事に仕返しされたことに気がついた。
「こりゃあ見事に一本とられたわい。わしの負けじゃ。いたずらもほどほどにせぬと、思わずしっぺ返しを喰うわい」と、腰をさすりながら、高林庵に戻って行った。

豊橋・高師・芦原校区の民話
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2006年05月29日

大西の馬頭観音

 昔、大西の里に、たいへん働き者の馬方が住んでいた。
「今日もご苦労だったなあ。帰りの荷がなくてよかったよ」

 重い荷物を隣村まで届け、ほっとした馬方は、空になった馬の背中を優しくなでた。村から里まで急な坂道を通り抜け、昼でも暗い杉木立を通り過ぎると、後は一本道だ。
「おお、おてんとさまが隠れそうだぞ。急がんと日が暮れる」

 馬方は、赤く染まってきた西の空を眺めながら、馬の前をテクテクと歩き続けた。汗びっしょりの顔を拭いもせず、ただ早く帰りたい一心だった。時折り、冷たい風が背中のあたりをかけ抜けていく。
 
 (あれ?何かおかしいぞ。わしと馬しかおらんはずなのに、何かいるぞ)
前になったり後ろになったり、たしかに何かがいるのだ。(もしや、オオカミ・・)ぞくっとした馬方の手にぐっと力が入った。
「おおーい、そこの狼よ。姿を見せな。わしの家までついてこい。お前の大好きな塩をやるぞ」

 恐ろしさに震え、しぼりだすような馬方の声は、切れ切れになって、風に散っていった。
 
 でも、何かがひたひたとついてくるような気配は、やむことがなかった。馬方は、息を殺し、恐ろしさに震える足をただ前に前にと運び続けた。ようやく、家にたどり着いた時は、真夜中を過ぎていた。家の中に一歩入った馬方は、何より先に井戸の水を汲んだ。
「おお、よしよし、これで安心だ。いっぱい呑めよ」

 馬がかいばを食べ始めたのを確かめると、疲れ果てた馬方は、そのまま土間にごろんと転がり、眠ってしまった。
 
 朝になった。鶏の声といっしょに起きた馬方は、首をかしげた。自分が餌を作り出すと、必ず聞こえてくる朝の一声、「ヒヒーン」が聞こえない。急いで桶をさげ馬小屋に走った。
(これは、どうしたことだ?)

 馬は、影も形もない。慌ててそこらを探し回ったが、どこにもいない。声もかれはて、井戸端に倒れ込んだ馬方の目に飛び込んできたのは、馬の片足だった。やっと、狼に喰われてしまったことが分かった。
「何とかわいそうなことよ。わしが悪かった。わしが約束を破ったばっかりに、とりかえしのつかんことをしてしまった」

 馬方は、憐れな馬の霊を慰めようと、馬頭観音を作り、お祀りするようになった。今も、小さな観音さまは、大西の公民館脇の小さな祠(ほこら)の中から、働く人々を見守っている。

豊橋・牟呂・汐田校区の民話
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2006年05月25日

お蚕(かいこ)さま

 蚕の卵が産み付けられた種紙は、今からおよそ千三百年前から、寒い冬の間、本宮山奥院(ほんぐうさんおくのいん)の木箱に預けられていた。春になると、宮司の祈祷を受けて養蚕(ようさん)農家に配られた。
 
 吉田で養蚕が始まったのは明治の初めだった。
 
 細谷(ほそや)で生まれた民造(たみぞう)は、蚕に不思議な力を感じ、農家が生き残るには製糸しかないと考えた。そこで、六名の女工を群馬県碓氷(うすい)に行かせ、製糸の技術を習わせた後、花田(今の羽根井校区)に製糸工場を造った。
 
 また、民造の弟は、
「質の良い繭(まゆ)を生産するには、桑が大事」
と桑の改良に努めた。桑畑は細谷、二川方面から近隣の農家に広がり、蚕を飼う農家が増えていった。

 茂一(もいち)も細谷で子どもの頃から桑をつんで育った。あるとき父親から
「お前も製糸で身を立ててみないか」
と進められ、中郷(なかごう)神社の近くで製糸をはじめた。茂一の一日は、体を清め、正装して神前に正座し、祈りを捧げることから始まった。

 茂一の楽しみは、繭問屋と連れだって養蚕農家を訪ねることだった。いつも足を運んだのは、谷川のせせらぎが聞こえるお美津(みつ)の家だった。清々しい緑の空気がごちそうだった。ここで育った繭は、昔から質のよい絹糸になるのでたいそう尊ばれ、お上への献上品として遣われた。茂一が
「タンポポのわた毛が飛び始めたので、ぼつぼつ卵を温めるころかと思ってな」
と話しかけると、お美津は目を細めて、
「だいじなお蚕さまだでね。わたしが種紙を半纏(はんてん)でおぶって卵を温めとるだよ。そろそろ卵が透きとおってきたで、そのうち、かわいい蚕が生(は)えるぞね」

 蚕が生え、はきたてが始まると、養蚕農家はにわかに忙しくなる。

 桑が足らなくなると、じいさまが桑問屋をかけまわって桑を集めるのだ。
「蚕にゃあ、『桑だぞよ、桑だぞよ』と話しかけ、待って貰うだが、つらいぞん』

 わが子のように育てた蚕が、藁で作ったまぶしの中をくぐりぬけて糸を吐きながら命がけで繭をつくる様は人の心を動かした。

 こうしてつくられた品質の良い繭は、皇室に献上され、後に「蚕都豊橋(さんととよはし)」と呼ばれるようになった。

豊橋・羽根井校区の民話
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2006年05月05日

山の背くらべ

 石巻山と本宮山は、いつも自分の方が背が高いと言い争いしていた。この日も朝早くから、
「やい石巻山、お前が何と言おうと俺の方が背が高いぞ」
と、本宮山が大声で叫んだ。

 すると石巻山も大声を張り上げ、
「何をこくだ本宮山。俺の方が背が高いにきまっとらー。お前なんかに負けるもんか」と激しく言い返した、両方の山の神様が石をぶつけ合うほどの大喧嘩となった。

 そこで、まわりの山々の神さまたちが集まり、
「このような争いをいつまでも続けさせておくのはよくないぞ。どっちが背が高いか、背くらべをしてやらまいか」
と相談した。神様たちは、石巻山と本宮山の頂上に樋い(とい)をかけ、水を流した。すると、水は石巻山側に激しく流れ落ち、石巻山が負けてしまった。

 この時の、水の流れによって石巻山の頂上の土がドッと流れ落ち、大きな岩がむき出しになってしまった。
 
 そんなことがあってから、石巻村の人々は、石巻山が少しでも高い山になるようにと、
「石巻山に登る時、小石を持っていくと楽に登れるぞん。また、山の頂上に小石を置いて、願いごとをすると、ちゃんと願いを聞いてくれるだに」
という噂話をつくって、言い広めたので、それからは、石巻山に登る人たちは小石を持っては山に登り、頂上に置いて山の神さまに願いごとをした。
「今日は、小石をもっていったお陰で、神さまが助けてくれたのか、こんきく(疲れ)なかったやあ」
と言う人たちが増え、石巻山は小石を持っていけば、だれでも登れる山で、ご利益のある山と言い伝わり、小石を持って登る人々で賑わうようになった。

 また、石巻山の北一キロメートルほどの所に、本宮山との喧嘩で石を投げ合ったとき、飛んできたつぶて石だと言われる岩がある。
 
 このごろは、山上(やまのかみ)石巻神社にお参りする時、麓(ふもと)から小石を持って登り、灯篭にあげたり、鳥居に投げ上げてお参りするとご利益があると言われている。特に子どもがお参りすると、頭がよくなるというので、遠くから子供連れでお参りに来る人もいる。

[注]石巻山(豊橋市石巻町)356メートル
  本宮山(現在の豊川市一宮町)789メートル

豊橋・石巻校区の民話
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2006年04月08日

おしいばち

 昔々、神代の時代のこと。

 天照大神(あまてらすおおみかみ)の言いつけで、六人の神々が、海手の賊を退治するために、航海に出た。向かうもの敵なしの勢いで、悪者たちに立ち向かっていた神々に、突然の不幸が襲ってきた。航海中、暴風雨に見舞われてしまったのだ。飢えと寒さに震えながら、漂流すること十数日、やっとたどり着いたのが植田の海辺だった。

 命からがら岸にはいあがった神々は、助けを求めて歩き続けた。ようやく見つけた里人の家の前まで来ると、手を合わせて頼んだ。
「食べ物をわけていただきたい」
 
 しぼりだすような必死の声に、里人はそっと戸のすきまからのぞいてみた。
「何ということだ!賊かもしれないぞ」

 着ているものは破れ、髪の毛もひげもぼうぼうだ。落ちこんだ目だけが、ギラギラ光っている。あやしげな姿に恐れをなした里人は、そっと裏口から抜け出すと里の人々に急をつげてまわった。
「食べ物を恵んではならんぞ。早く村から追い出してしまえ」

 その夜、里人の家は、どこも固く戸を閉じて開かなかった。
 
 六人の神々は、世の無常を嘆き、動く気力もなく地に伏して泣いた。

 翌朝、東の空があけ始めるころ、里人たちは、森外れの木陰で固く抱き合っている六つの亡きがらを見つけた。びっくりした村人たちが、冷たくなった亡きがらを調べてみると、高貴な神々であることがわかった。
「なんと、むごいことよ。知らぬとはいえ、悪いことをしてしまった」

 里人たちは、自分たちの罪の深さを悟り、心をこめて六人の死を弔い塚を立てた。これが、車神社の境内にある「ひさご塚」だといわれている。

 毎年、十月二九日の祭礼には、「おしいばち」という神事が大切に受け継がれている。

 当番に当たる人たちは、夜明けごろから大釜でご飯をたき、客側を待ち受ける。客たちは、裃に身を固め、特大の親碗に盛り上げたご飯をいや応なしに食べなければならない。一粒でもこぼしたり、食べ残したりは許されない。凶年になっては大変だからだ。早くきれいに食べれば食べるほど豊年だといわれている。
「決して食べ物を惜しんだのではありません」

 六人の神々を餓死させたことへのお詫びの意味が込められると共に、この神事が長い間受け継がれてきたのは、白米に対する願望と、感謝の意味が込められている。

豊橋・植田校区の民話
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2006年04月05日

片身のスズキ

 昔々、吉田の里に五郎という漁師が住んでいた。

 五郎は、いつものように豊川に漁に出かけた。ところが、どういうものか小魚一匹釣れなかった。次の日も、また次の日も漁はなく、骨折り損のくたびれもうけだった。それでも五郎は毎日かかさず豊川に漁に出かけて行った。

 豊川のほとりで生まれ、育ち、豊川を漁場として生業(なりわい)をたてている五郎には、十日、半月、魚が釣れずとも漁場を代えようとは思わないが、雑魚一匹釣れないのは何か理由があるだろうと気になっていた。
「今日で何日目だろう。こんなに魚に嫌われちゃあ、俺んとう漁師はおまんまの食い上げじゃ」
と、五郎がつぶやいた九日目の朝のこと、五郎の竿がいきなり大きくしなった。そりゃあ、びっくりするほどの手応えだった。
「きた、きた、きた。お前だなあ、お前のために、ここの魚んとうが何処かに散らかってしまったぞ。お前を逃がす訳にゃあいかねえや、俺んとう漁師の生活が掛かっとるでな」

 しばらくの間、五郎と魚の激しい戦いが続いたが、やがてとてつもなくでっかいスズキを釣り上げた。五郎は釣り上げたスズキを魚篭(びく)に入れると、大急ぎで家に持ち帰り女房に見せた。
「あんた、吉田のお殿様は、スズキの刺身が大好きだちゅうで、お城にさし出し、お殿様に喜んでもらっちゃあどうだん」
「ああ、俺も、そう思っとるぞ。何たって豊川で釣り上げた自慢のスズキだ。お城に届ける前に、お前にみせたくてな」
と言うと、五郎は自慢のスズキを早々にお城に届けた。

 お城では、料理番の男たちが、貰ったばかりのでっかいスズキを刺身にしようと、庖丁を研ぎ、スズキをまな板の上にのせた。そして、サーっと片身をそいだ途端、スズキは元気よくピョーンと跳ねると、片身のままお城の裏を流れる豊川に跳び込んでしまった。

 さぁ大変。料理番たちは大慌てでタモを取り出し、片身のスズキをすくおうとしたが、川に跳び込んだスズキは、片身のままで、川底へ泳いでいってしまった。

 片身のスズキは、そのまま長く城下に住みつき、この豊川の主となったと言われている。

豊橋・八町校区の民話
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2006年03月29日

千体骨地蔵(せんたいこつじぞう)

 今から、およそ八百二十年前のこと、平家の武将原田太夫種直(はらだだゆうたねなお)は芦屋浦(あしやうら・福岡県)の合戦で、源氏に敗れて捕らえられ、鎌倉の土牢に入れられた。

 種直は戦に出るとき、妻の栄耀(えいよう)に、
「お腹の子は花若丸と名付けよ」と告げていった。

 花若丸は成長するに従って、父を想う気持ちが強まっていった。十三歳になった時、家臣の子、十七歳の藤王丸と共に母に連れられ芦屋浦に行った。

 美しい芦屋浦の波打ち際で戯れていたが、波のいたずらか砂が形を作り、それが人の顔のようにも、人形のようにも見えるのに驚いた。
 
 ここは、かつて父や兄が戦った芦屋の合戦場の砂浜であり、砂の中には、この地で、討ち死にしたと思われる源平の武将たちの遺骨だろうか、たくさんの骨があった。砂の中から拾い上げた骨をこわさないように積み上げていると、母が言っていた
「お地蔵さまは、一心に祈れば願いごとをかなえて下さるのですよ」
という言葉を思い出した。
「そうだ、この骨を集め、すりつぶして練り上げ、千体のお地蔵を作ろう」
と決心した花若丸は、戦場に消えた源平両方の武将たちの霊を慰め、お経を唱えながら、大きさ十センチほどのお地蔵さまを一体、一体、心をこめて作り上げた。

 完成した千体のお地蔵さまを丁寧に厨子に納めると、藤王丸が背負い、母に見送られて鎌倉へ向かって旅立った。
 
 お地蔵さまを作り始めた時から花若丸は、父の捕らわれている鎌倉へ行き、自分が代わりに牢に入り、父を許してもらうよう願い出たいと思っていた。厨子を背負い、念仏を唱えながら、鎌倉の町を歩く二人の若者の姿は、人々の噂となり、やがて源氏の大将、源頼朝(みなもとのよりとも)の耳にも入った。

 頼朝の命により、花若丸は目通りが許され、御前に厨子を差し出した。藤王丸の手で厨子の扉が開かれると、その瞬間、千体地蔵尊から後光がさした。どの地蔵尊の顔も、戦で失われた人を痛む悲しみと、深い慈愛の表情があった。

 花若丸は、千体地蔵尊に込めた思いを頼朝に話した。頼朝は、花若丸の親を思う気持ちに心を打たれ、種直を許した。そして種直たちは、三州足助(さんしゅうあすけ)に移り住んだ。

 種直と一行が足助に向かう途中、立ち寄った花ケ崎(現在の南松山町)は、芦屋浦を偲ばせる景色の美しさであった。後に母、栄耀は、この地に正林寺(しょうりんじ)を建立し、千体骨地蔵尊を安置した。

 現在、正林寺の地蔵堂には、厨子に納められた千体地蔵尊が祀られている。

豊橋・松山校区の民話
posted by ハマちゃん at 09:52| Comment(2) | TrackBack(0) | 豊橋の民話集 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月24日

知恵地蔵(ちえじぞう)

 昔、前芝村に働き者のばあちゃんがいた。ばあちゃんは若い頃からよく働き、そりゃあみんなが感心していた。

 ある日のこと、ばあちゃんが仕事に出かける途中で小石につまづき転んだので、家にもどり休んでいたが、だんだん痛みがひどくなり、とうとう歩けなくなってしまった。じいちゃんも、子どもたちも心配して、薬草を煎じて飲ませたり、背負って医者につれていったが一向によくならなかった。ばあちゃんは、
「ほんにつらいこと。これじやぁ畑仕事もできやぁせん。わしゃあなんの役にもたたんもんになっちゃったやぁ。ほんに情けない、情けない」と、嘆き悲しんでいた。

 ところが、ある晩のこと、ばあちゃんは不思議な夢をみた。
「深い霧の中から、仏さまが現れてな、わしの目をじっと見て、『知恵地蔵にお参りせよ。そうすればお前は必ず歩けるようになるぞ』とお告げがあったんじゃ。みんなが毎日働いとるのに、わしだけが寝とっちゃすまんでな、わしゃあ藁にもすがりたい思いだて。じいちゃん、すまんが明日、わしを蛤珠寺(こうじゅじ)の知恵地蔵さんところへつれていっておくれんさい」

 次の日、じいちゃんは大八車にばあちゃんを乗せて蛤珠寺につれていった。そこで、ばあちゃんは知恵地蔵さまに手を合わせ、何度も何度も一生懸命お参りをした。

 その次の日の朝、なんだか足が軽くなったような気がしたので、思い切って立ってみると、なんと立ちあがることができた。
「あ、ばあちゃんが立っとるぞ」

 そりゃあ信じられんようなことが本当に起きた。いままで寝たきりだったばあちゃんが、ゆっくり歩きはじめると、みんなは、またびっくりした。なにより、ばあちゃんの喜びようはたいへんなものだった。
「こりゃあ知恵地蔵さんのおかげにちがいない」

 これを聞いた近所の人は、どこかが痛かったり、具合がわるくなると蛤珠寺の知恵地蔵さんにお参りするようになった。噂はどんどん広まり、遠くの方からも蛤珠寺を訪れるようになった。

 いまでは、地蔵さまの名前のとおり、体の具合の悪い人のほかに知恵を授けてもらおうと入学試験や就職試験の合格祈願にくる人たちでにぎわっている。

[注] 知恵地蔵 前芝町蛤珠寺

豊橋・前芝校区の民話
posted by ハマちゃん at 18:57| Comment(2) | TrackBack(0) | 豊橋の民話集 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月12日

野依八幡社と経本

 ある年のこと、いく日もいく日も大雨が降り続き、とうとう梅田川の堤防を乗り越えて、野依村まで大水が押し寄せて来た。野依八幡社(のよりはちまんしゃ)も、あれよあれよという間に濁流の渦に巻きこまれてしまった。
「八幡社の御神体は流されやせんか、見て来たいのん」
「豊前国(ぶぜんのくに)から分けてもらった神さまだもん、ほっとけんぞん」
氏子たちは、居ても立ってもおられなかった。
「お経本の置いてある蔵の中まで水が入ってきたずらか。そのまんま残っとるとありがたいけれどのん」

 僧侶も心配になり、隣のお寺と連絡を取り合った。水が引きはじめると氏子や僧侶たちは、八幡社へ飛んでいった。ごみや流木をかきわけて蔵にたどりついた時、被害のひどさに驚いた。
「経本が見当たらん。こんなにひどい洪水ははじめてだぞん」
みんなで捜したが経本は見つからなかった。
「昔の洪水じゃあ、寺の桶が芦原新田に流れついたと聞いたぞん」と言う人もいた。

 大洪水の後始末を終えかけたある日、伊勢皇太神宮(いせこうたいじんぐう)の宮司から、
「伊勢の浜辺に打ち寄せられた経本を調べたら、三河国(みかわのくに)野依八幡社蔵所有とわかりました。お困りでしょう。すぐにお届けします」という知らせが入った。伊勢の浜辺の人がこれを見つけ、伊勢神宮に届けてくれたお陰だった。こうして経本は無事に八幡社に戻ってきた。
「経本といい、わしら村の衆といい、昔から伊勢とはご縁が深いぞん。ありがたいことだのう」
村人は、心のそこから手を合わせた。

 その後、「般若経六百巻(教本)が全巻そろっていれば国宝本といわれる」という話が、村人に知られるようになった。経本にくわしい人が、
「中国の本だげなよ。仏教のもとになる教えがつまっておるぞん」
「比叡山栄山寺(ひえいざんえいざんじ)のお坊さんによって伝えられたと聞いとるがのん」
と口々に言った。その話を聞いた村人は、「おらが八幡社はなかなかのもんだ」と思うようになった。しかし、経本は古くなり、使えるものは一冊もなかった。そこで、村人が寄りあって相談し、般若経六百巻を揃えた。

 今では、嵩山寺(すざんじ)と東雲寺(とううんじ)で保管され、毎年、両方のお寺で交互に転読されている。

[注]野依八幡社の御神体 今から約千三百年前に、豊前国(大分県)の宇佐八幡宮(うさはちまんぐう)からわけていただいた御神体を祀っている。

豊橋・野依校区の民話
posted by ハマちゃん at 14:52| Comment(4) | TrackBack(1) | 豊橋の民話集 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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