2007年03月08日

海に消えた皇子

 千二百年も前のこと。弥生三月、西風が激しく吹き荒れたため、沖で漁をしていた漁船が牟呂の陸地へ吹き寄せられていた。漁船に混じって一隻の不思議な形をした船があった。その船には、舳先(へさき)もなければ、艫(とも)もない。

 村人たちは、「船中から何か物音が聞こえる。人の話声が聞こえる」
と不審がった。その時、年老いた漁師が、
「これは話に聞くうつろ船だろう」
と言った。村人たちが、板を外してみると殿上人(てんじょうびと)と思われる若い男女二人と、年のいった女が一人、屈強な武士が二人の五人が乗っていた。

 一行は長らく海上を漂流していたとみえて、色は青く、やせ衰え、ものも言わず、ただ手を合わせ、涙を流し、
「我らは故ある者だが助けてくれよ」
と、願うばかりだった。

 牟呂の郷人(さとびと)たちは、どこの誰だか解らないが、とにかく、家につれて帰り、手厚く介抱した。一行はやがて元気を取り戻すと、ここに流れ着いた訳を話した。

 一行は、天武天皇(てんむてんのう)の皇子で開元親王(かいげんしんのう)と、官女と乳母(うば)、二人の家来だった。天皇は兄たちよりも文武ともに優れる第三皇子の開元王を、日頃より好ましく思わなかった。ある日、天皇の怒りに触れて皇子は流罪(るざい)となった。その時、四人の者も一緒にうつろ船に閉じ込められ、流されてしまった。

 話を聞いた村の者は、そのような立派な方を草家などではもったいないと、村長(むらおさ)に申し出て、大海津の南にあるひがき屋敷に新御殿を建て、皇子の住まいとした。村人たちは皇子を「開元王」と呼び、敬い慕った。

 皇子も大変に喜ばれ、御殿の裏に観音さまを祀り、深く信仰された。この観音さまは、御殿の真後ろにあるということで、真裏口(ませぐち)の観音と呼ばれ、多くの人の信仰を集めた。そこは村人ばかりか、遠くから大勢の人が訪れ、市(イチ)が立つほどとなり、そこを市道と呼ぶようになった。

 やがて皇子もお后を迎え、日常の生活にもゆとりができたので、宮路山に登ったり、舟遊びを楽しむようになった。そのような度々の外出や、近国(きんこく)の神主に官職を許可したり、多くの人が観音さまにお参りするようになったことが、国府(こくふ)の役人の知ることとなった。役人は、天皇の皇子であることに驚き、都にその報告をした。

 天皇は、開元王の振舞いを知り、怒って討手(うって)を差し向けた。それを知った皇子は見苦しい死に方はしたくないと、自分の死を覚悟し、村長にこれまでの礼を言うと、自ら海に入り、やがて波の間に隠れてしまわれたと伝えられている。


牟呂・汐田校区の民話
タグ:豊橋 民話 牟呂
posted by ハマちゃん at 23:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 豊橋の民話集 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/35519160

この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。