2006年05月25日

お蚕(かいこ)さま

 蚕の卵が産み付けられた種紙は、今からおよそ千三百年前から、寒い冬の間、本宮山奥院(ほんぐうさんおくのいん)の木箱に預けられていた。春になると、宮司の祈祷を受けて養蚕(ようさん)農家に配られた。
 
 吉田で養蚕が始まったのは明治の初めだった。
 
 細谷(ほそや)で生まれた民造(たみぞう)は、蚕に不思議な力を感じ、農家が生き残るには製糸しかないと考えた。そこで、六名の女工を群馬県碓氷(うすい)に行かせ、製糸の技術を習わせた後、花田(今の羽根井校区)に製糸工場を造った。
 
 また、民造の弟は、
「質の良い繭(まゆ)を生産するには、桑が大事」
と桑の改良に努めた。桑畑は細谷、二川方面から近隣の農家に広がり、蚕を飼う農家が増えていった。

 茂一(もいち)も細谷で子どもの頃から桑をつんで育った。あるとき父親から
「お前も製糸で身を立ててみないか」
と進められ、中郷(なかごう)神社の近くで製糸をはじめた。茂一の一日は、体を清め、正装して神前に正座し、祈りを捧げることから始まった。

 茂一の楽しみは、繭問屋と連れだって養蚕農家を訪ねることだった。いつも足を運んだのは、谷川のせせらぎが聞こえるお美津(みつ)の家だった。清々しい緑の空気がごちそうだった。ここで育った繭は、昔から質のよい絹糸になるのでたいそう尊ばれ、お上への献上品として遣われた。茂一が
「タンポポのわた毛が飛び始めたので、ぼつぼつ卵を温めるころかと思ってな」
と話しかけると、お美津は目を細めて、
「だいじなお蚕さまだでね。わたしが種紙を半纏(はんてん)でおぶって卵を温めとるだよ。そろそろ卵が透きとおってきたで、そのうち、かわいい蚕が生(は)えるぞね」

 蚕が生え、はきたてが始まると、養蚕農家はにわかに忙しくなる。

 桑が足らなくなると、じいさまが桑問屋をかけまわって桑を集めるのだ。
「蚕にゃあ、『桑だぞよ、桑だぞよ』と話しかけ、待って貰うだが、つらいぞん』

 わが子のように育てた蚕が、藁で作ったまぶしの中をくぐりぬけて糸を吐きながら命がけで繭をつくる様は人の心を動かした。

 こうしてつくられた品質の良い繭は、皇室に献上され、後に「蚕都豊橋(さんととよはし)」と呼ばれるようになった。

豊橋・羽根井校区の民話
posted by ハマちゃん at 22:11| Comment(2) | TrackBack(0) | 豊橋の民話集 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
「蚕都」と呼ばれていたというのはスゴイですね。今でも養蚕は盛んなのかな。

豊橋市美術博物館の豊橋市民俗資料収蔵室には養蚕の民具も保管されています。むか〜し学生時代に見たことがあるようなかすかな記憶が…。

紡績や繊維産業は、三河や遠州では現在も盛んですね。豊橋だとユニチカとかありますし。私の住む湖西も昔は紡績工場とかが多かったのですが、現在ではほとんど撤退しています。
Posted by ひとぴん@エクステリア明日香 at 2006年05月26日 11:38
ぴとぴんさま
ありがとうございます。

歴史のながれでしょうか。
豊橋もいまでは、「蚕都」の面影はほとんどありませんね。
Posted by ハマちゃん at 2006年05月26日 12:31
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