2006年03月29日

千体骨地蔵(せんたいこつじぞう)

 今から、およそ八百二十年前のこと、平家の武将原田太夫種直(はらだだゆうたねなお)は芦屋浦(あしやうら・福岡県)の合戦で、源氏に敗れて捕らえられ、鎌倉の土牢に入れられた。

 種直は戦に出るとき、妻の栄耀(えいよう)に、
「お腹の子は花若丸と名付けよ」と告げていった。

 花若丸は成長するに従って、父を想う気持ちが強まっていった。十三歳になった時、家臣の子、十七歳の藤王丸と共に母に連れられ芦屋浦に行った。

 美しい芦屋浦の波打ち際で戯れていたが、波のいたずらか砂が形を作り、それが人の顔のようにも、人形のようにも見えるのに驚いた。
 
 ここは、かつて父や兄が戦った芦屋の合戦場の砂浜であり、砂の中には、この地で、討ち死にしたと思われる源平の武将たちの遺骨だろうか、たくさんの骨があった。砂の中から拾い上げた骨をこわさないように積み上げていると、母が言っていた
「お地蔵さまは、一心に祈れば願いごとをかなえて下さるのですよ」
という言葉を思い出した。
「そうだ、この骨を集め、すりつぶして練り上げ、千体のお地蔵を作ろう」
と決心した花若丸は、戦場に消えた源平両方の武将たちの霊を慰め、お経を唱えながら、大きさ十センチほどのお地蔵さまを一体、一体、心をこめて作り上げた。

 完成した千体のお地蔵さまを丁寧に厨子に納めると、藤王丸が背負い、母に見送られて鎌倉へ向かって旅立った。
 
 お地蔵さまを作り始めた時から花若丸は、父の捕らわれている鎌倉へ行き、自分が代わりに牢に入り、父を許してもらうよう願い出たいと思っていた。厨子を背負い、念仏を唱えながら、鎌倉の町を歩く二人の若者の姿は、人々の噂となり、やがて源氏の大将、源頼朝(みなもとのよりとも)の耳にも入った。

 頼朝の命により、花若丸は目通りが許され、御前に厨子を差し出した。藤王丸の手で厨子の扉が開かれると、その瞬間、千体地蔵尊から後光がさした。どの地蔵尊の顔も、戦で失われた人を痛む悲しみと、深い慈愛の表情があった。

 花若丸は、千体地蔵尊に込めた思いを頼朝に話した。頼朝は、花若丸の親を思う気持ちに心を打たれ、種直を許した。そして種直たちは、三州足助(さんしゅうあすけ)に移り住んだ。

 種直と一行が足助に向かう途中、立ち寄った花ケ崎(現在の南松山町)は、芦屋浦を偲ばせる景色の美しさであった。後に母、栄耀は、この地に正林寺(しょうりんじ)を建立し、千体骨地蔵尊を安置した。

 現在、正林寺の地蔵堂には、厨子に納められた千体地蔵尊が祀られている。

豊橋・松山校区の民話
posted by ハマちゃん at 09:52| Comment(2) | TrackBack(0) | 豊橋の民話集 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
私の地元の福岡県前原市波呂にある龍國禅寺にも種直の墓があります。
原田種直の釈放後の行方について調べております。
種直の妻は平重盛の養女(平家盛の娘)ですね。
Posted by 菊千代 at 2006年09月03日 01:15
菊千代さま
ありがとうございます。

原田種直の妻(栄耀)は、平重盛の養女だったのですね。

まだ、背景が調べられていなくて・・・
勉強になりました。
ありがとうございます。
Posted by ハマちゃん at 2006年09月03日 07:38
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