2006年10月23日

民話「おしいばち」の背景を訪ねて その3

フグの森

民話「おしいばち」に登場する、
植田町にある「フグの森」を、ロマン会のみなさまに案内していただき訪ねました。

「フグの森」は、民話「おしいばち」に登場する
六人の神々が、飢えと寒さに震えながら、やっとたどり着いたといわれる場所だそうです。

行ってみると、鳥居はあるものの
「えっ! ここが神社なの?」というようなところで、
案内してもらわなければ、きっと見つけることができない場所でした。

またまた勉強になりました。
ロマン会のみなさんありがとうございます。
ラベル:豊橋
posted by ハマちゃん at 11:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 豊橋の民話-場所・背景 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月21日

民話「庄屋源吉」の背景を訪ねて

芦原校区市民館で活動されている「ロマン会」のみなさまにご案内していただき、民話「庄屋源吉」の背景を訪ねてきました。

ほんとうにありがとうございました。

庄屋源吉の頌徳碑というのは、豊橋市上野町にある「円通寺(えんつうじ)」にあることは知っていたのですが、お墓が豊橋市芦原町にある「奥谷寺(おうこくじ)」にあることを教えていただきました。

案内していただきながら、「奥谷寺」を訪ねると、芦原町あたりはそのむかし海で、吉原・豊田・尾崎氏が中心となって開拓しいまのようになったのだとか。

灯篭 金比羅大権現.jpg

海であったことの名残が、「金比羅大権現」と記された灯篭にもありました。

庄屋源吉の墓.jpg

そして、「庄屋源吉のお墓」を訪ねます。
古いお墓の前に、少し新しい「義民庄屋源吉之墓」と記された墓石が建てられていました。
古いお墓には、戒名のようなものが書かれているだけで、知った人にしか「庄屋源吉」のお墓とはわからないものです。
これは、直訴という大罪を犯したから、ひっそりと建てられたのではないか・・・ということでした。

奥谷寺の裏手にある、逆鉾(さかほこ)神社を訪ね、この地を中心になって開拓した、吉原・豊田・尾崎ら3氏のお墓を見にいきました。

芦原を開拓した方のお墓.jpg

お墓のある場所は、七曲りという坂を上った先にある芦原が一望できる高台にあり、当時、開拓の進み具合をここで眺めていた場所だといいます。

七曲りという坂には、道祖神も祀られていました。
(草にかくれて、なかなか見つけることができませんでしたが・・・)

七曲りの道祖神.jpg

そして、豊橋市上野町の円通寺境内にある「庄屋源吉頌徳碑」を訪ねました。
この碑は、昭和36年、高師校区民によって建立されたそうです。

庄屋源吉頌徳碑

いまは、義民として祀られる「庄屋源吉」ですが、
当時は、大罪を犯したということで、ひっそりと祀られていたようです。

歴史は、見直されることがあるのだな〜と、背景を訪ね感じました。
ラベル:豊橋
posted by ハマちゃん at 18:21| Comment(2) | TrackBack(0) | 豊橋の民話-場所・背景 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月11日

庄屋源吉(しょうやげんきち)

 源吉は、今からおよそ二百五十年前、高足村(高師)の庄屋の家に生まれた。十八歳の時、村人たちに推されて庄屋となった。その頃、たび重なる飢きんや洪水などの水害にあい、穀物などの蓄えも底をついた。そのうえ、木の枝一本たりとも自由にならず、お上からの年貢のとりたては厳しくなるばかりだった。
 
 ある時、たまりかねた村人は、年貢をまけてもらうしか生きていく道はないと思いつめ、源吉のもとへやってきた。
「お役人さまに年貢を免じてくれるように頼んでくだせえ」「でないと、おらたちゃあ、むしろ旗を・・」と言いかけた時、源吉は、村人の言葉をさえぎり、
「それ以上いうな。みなさんの苦しみは私の苦しみだ。任せてくださらんか」と低い声できっぱりと言った。

 源吉は、近隣の村々の庄屋に相談を持ち掛け、みんなで藩主・松平氏に年貢を免じてくれるように申し出た。役人は、これを許さず、
「けしからん。藩主が免ずると申さぬに。さらなる訴えは、お上の命令に背くもの。獄に入れるぞ」とおどしたので、他の藩主は願いを取り下げてしまった。

 源吉は屈することなく、
「死を恐れて、どうしてこのお願いができましょうや。願いが取り上げられないのなら、臨在寺山(りんざいじさん)(吉田藩の死刑執行場)へお連れ下さい」
と言いきった。そればかりか何度も足を運んで訴えつづけたので、藩主は、検見(けみ)をするように役人に命じ、「年貢百三十八石を減じる」という知らせを届けた。

 村人の喜びもつかの間、源吉は命令に叛いた(そむいた)罪で死刑を宣告され、牢獄に入れられた。源吉の後を追っかけた村人は、
「庄屋さまを死なせてなるもんか。待っていてくだせえ」
と叫んだ。知らせを聞いて駆けつけた村人たちは、
「今こそ、おらんとうが立ち上がる時だ。みなの衆、心を合わせましょうぞ」
と固く誓いあった。その足で悟真寺(ごしんじ)・龍拈寺(りゅうねんじ)・東別院三坊(ひがしべついんさんぼう)の和尚さまと連れ立って役場に行き、源吉の刑を減らすよう懇願した。村人たちの強い気持ちが通じたのか、源吉は五年後に許され、村へ戻って来た。だが、長い獄中暮らしのため病の床に伏してしまった。
「もう三年も寿命があったら畑租(はたそ)を減らしてもらって、村の衆をもっと幸せにできたであろうに。それができないのが心残りだ」
といい終えると源吉は目を閉じた。この時、源吉はまだ二十五歳だった。


豊橋・高師・芦原校区の民話
ラベル:豊橋
posted by ハマちゃん at 23:37| Comment(7) | TrackBack(0) | 豊橋の民話集 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。